The Newest Post
映画『チョコレートドーナツ』と『わたしはロランス』に見る性的少数派の目線 3/3
- Get link
- X
- Other Apps
1/3(最初の記事)はこちら
2/3(続編)はこちら
◯『わたしはロランスに』ついて私が思うこと
『わたしはロランス』を見てまず思ったことは、この話はロランスの話でもあるが、ロランスの長年のパートナーであったフレッドの話なのである。フレッドは(性的)多数派の人である。本作はこのフレッドがロランスのパートナーであることで、悩み、葛藤する物語である。この手の映画に多い(?)マイノリティに視点を当てたものとはひと味違い、多数派にいたフレッドの心の揺れ動きがすごく丁寧に描かれている。
ロランスは原題にあるように、Laurence Anywaysで、ロランスの生き方を貫く。実際作中で、ロランスは女性になりたいとは言っていたが、ロランスが性同一性障害であるとか特に何も言及されていなくて、それも私はよかったと思った。結局大切なのは、ロランスがロランスとして生きている、それだけなのだから。
それに対して、フレッドはロランスが女性らしい姿をしていくにつれて、“女性の格好をしている人のパートナー”という立ち位置になります。多数派の男女のカップルであった自分が変わっていくことに不安と葛藤を覚えていきます。喫茶店でロランスに好奇心が持ち話しかける店員に対して、フレッドがブチ切れるシーンがあるのですが、あれ、ロランスのことをかわいそうだと思って言ってるとこも少しはあると思うけど、内心は自分が辛いんですよね。マイノリティに片足突っ込んだ自分がどういう顔して座ってたらいいかわからない。アンタもこの女装している人の仲間なんか、という周りの視線に耐えられなかったんでしょう。
フレッドはその後もいろいろ悩むのですが、結局ロランスとは別れ、世の中の多数派の人が“普通”とする結婚、それから出産をして、一戸建ての家に住み、側から見たら何不自由ない生活をしているんですが、どこか不満そうなんです。フレッドの妹はそれを見抜いています。しかし、フレッドはこれで幸せだったんだ、と思うことで、その不満を払いのけようとします。これ、多数派の多くの人が考えていることじゃないだろうか…。
多数派であるからこそ、自分の心の中にある“本当の気持ち”に素直になれず、少数派になる一歩を踏み出せないのではないか。フレッドも結局、この境界を越えることはできなかった。
この境界を越えれる人、越えられない人、上で揺らぐ人、様々なタイプの人がいると思うけど、既存の男女間のパートナーシップに捉われないで生き方をしている人が現在増えてきている。増えてきているというか、昔からいたんだけど、それが明るみに出ても社会が少しずつ受け入れるようになってきている。
世界的に多様な生き方を社会が認めだしている。日本はまだまだだが、少しずつはよくなってきていると思いたい。しかし、日本という国は、セクシュアルマイノリティに限らず、マイノリティというカテゴリに含まれる人々に対して排他的であるように思う。
テレビでも、ゲイやオネエ系のタレントは出るが、レズビアンやFTM、その他のセクシュアリティの人はほぼ出ない。これって結局笑いにできないから、とか、イジリにくいから使いづらいみたいな理由だと思うんやけど、そういうことから見ても、多様なセクシュアリティの人々が排除されてるなあと思う。
話、それた。
結局、ロランスとフレッドは、お互いが愛し合っていながらも、もう一度ヨリを戻すこともなく、それぞれの道を歩き出します。私がこの映画のロランスのセリフですごく好きなものがあります。この映画はロランスがインタビュアーにインタビューされながら、今までの人生を振り返るという形式をとっています。インタビュアーの
「ロランス・アリア、あなたは一体何を求めているの?」
という問いに対して、ロランスが、
「私が発する言葉を理解し、同じ言葉を話す人を探すこと。自分自身を最下層に置かず、マイノリティの権利や価値だけでなく、“普通”を自認する人々の権利や価値も問う人を……。」
と答えます。この言葉が私はすごく好きです。ロランスはどうしてもロランスなのです。ロランスが生きたいように生きるのはワガママなことではない。多数派の人々が、結婚し、子どもをもうけ、相手と合わなかったら離婚する、そういったことと何も変わらないと思います。ロランス自身も生きたいように生きるのです。
少し飛躍しすぎかもしれないけど、マイノリティの人がありのままの自分で、生きることができたら何人の人が死なずに済んだんやろうと、ふと思うことがある。
何人の人の心のもやもやがなくなったんやろう。“普通”に合わせるために、自分を殺してきた人が何人いたんやろう。(今もいるんやろう)
多数派の人を批判しているのではないです。いろいろな生き方があって、それぞれに人が自分らしく生きたらいいと思っている。“普通”に捉われずに。
このようなことから、私はロランスの生き方に対してすごく希望を持ちました。そして、この映画を撮ってくれたグザヴィエ・ドラン監督にも感謝している。映画の撮り方なども素晴らしかったが、フレッド(多数派)側からのアプローチをしてくれたことがすごくよかったです。監督自身もゲイというマイノリティあることから、その経験や感覚が映画に生きていて、より人々を惹きつける作品になったのだと思います。
私が『わたしはロランス』を高く評価するポイント
- ロランスとフレッドの最終的な別れが、二人の新たなる門出の一歩となり、希望のスタートになっていること
- マイノリティ側の希望が持てる映画になっていること
この2点を私は高く評価しています。もちろん、多数派少数派に関わらず、多くの人々に高く評価されている本作ですが、マイノリティ側の私から見た場合でもすごく希望を持たせてくれる映画だったので、大変気に入りました。
『チョコレートドーナツ』は、感動映画として高く評価されていますが、この映画にはその後に繋がる希望のようなものはあるのか?この二つの映画を見て、マイノリティの描き方に関して、私は全く違う印象を受け取りました。私は『わたしはロランス』の描き方のほうが好きです。この描き方の違いを見て、みなさんどう思いますか?
ほんならまたね
Popular posts from this blog
幽幻道士3
幽幻道士3 監督:シュ・イェン・ウェン 1988年 台湾 あらすじ スイカ頭がキョンシーになってしまい悲しむのもつかの間、キョンシーを悪用され金おじいさんは捕まってしまう。その後なんやかんやあって(アバウト)金おじいさんが敵のムササビ道士に捕まってしまい、闇の特殊霊魂にさせられてしまう。 テンテンたちは金おじいさんの元婚約者であるマーボおばあちゃんのもとへ助けを求める。マーボおばあちゃんは法術は使わないと心に誓っていたが、金おじいさんと甥の盛天文が危ないことを知ると、秘術である「八卦上将軍の術」を使うことを決意する。 一言で言うと、八卦将軍の術がかっこよすぎる。これに尽きます。八卦将軍の術は特殊霊魂の術のさらに上を行くような術で未婚の男女が8人いないと行えない術でもある。アクションはもちろんのこと、衣装やメイク、歩き方、立ち位置など全てにおいて本当にかっこよいです。 ストーリーも1~3まで続いているお話なので、大変面白いのですが、この八卦将軍の術が素晴らしくかっこよいので、未見の方は是非見ていただきたいです。
幽幻道士4
幽幻道士4 孩子王 監督:チン・チュンリャン、ツァイ・ヤンミン 1988年 台湾 あらすじ 子供ばかりを襲う恐ろしい魔王がいた。その魔王に青龍という一人の道士が戦いを挑んだ。しかし、青龍は魔王に乗り移られてしまう。魔王は青龍の子供を狙い金おじいさんのもとへ現れる。金おじいさんと青龍は必死で戦ったが、青龍の妻のリンリンは殺されてしまう。金おじいさんは間一髪のところで、魔王の頭に杭を打ち込む。痛みに耐えかねた魔王は青龍を連れてどこかに消え去ってしまう。魔王が去ったあと、慌ててリンリンの元に駆けつける金おじいさん。リンリンの死にとても悲しむが、お腹の赤ちゃんが生きていることに気づく。法術で赤ちゃんを生ませることに成功する。この時産まれてきたのがテンテンである。テンテンは生まれたときから、特別な力を持っていた。それから、月日が経ち、テンテンと金おじいさんは、テンテンの父親である青龍を探す旅に出るのであった。 以下、今回の幽幻 4 の特徴 ・ 1 ~ 3 とは毛色が違う。 4 とついているが、全くの別物。外伝的な感じ。 ・そのため、 1 ~ 3 カラーが好きな人には少し受け入れ難い点があるかもしれない。 ・テンテンの誕生から大人までとはいかんけど、成長を描く。 ・テンテンが他の子供たちとは一線を画している。能力が違う。 ・ 1 とは対照的に親方がダメ親方。 ・テンテンがチビクロたちと面識がない。 ・「雷 ( いかづち ) よ!我に力を与えよ!」 ・金おじいさんはフルメタルキョンシーという皇帝を守った強い戦士たち ( のキョンシー ) を護衛兵として鍛えていたが、何者かに魔王の騒動のときに盗まれてしまう。 良い点 ・最初から最後まで話が二転三転していって、内容がとても面白い。 ・テンテンと金おじいさんの自転車に二人乗りしているシーンが好き。自転車アクション。 ・フルメタルキョンシーの服は私はあまり好きではないが ( 通常キョンシーの服のほうが好き ) フルメタルキョンシーを鈴 ( ベル ) で誰でも操れるというのは面白い。 ・魔王が人に乗り移れることで、次に誰に乗り移るのか、というハラハラ感が面白い。 ・乗り移られると皆すごく強くなって、顔に緑の光が当たる。 ...
新・桃太郎
新・桃太郎1( 捉鬼雜牌軍 The Child of Peach) 監督:チン・チュンリャン チャオ・チュンシン 1987年 台湾 昔々あるところに大きな大きな山があり、その山のずっと奥に、桃の国という桃源郷があった。この国の主は仙人でその子どもに生まれたのが桃太郎だった。 ある日、赤鬼大魔王が桃の国に、太陽の剣を奪いにやってくる。太陽の剣を奪われた桃の国は一気に光を失い、雪が降り出す。赤鬼大魔王に両親を殺された桃太郎は桃の神によってもたらされた大きな桃の中に入り、下界に降ろされた。 下界では、おじいさんとおばあさんが神様に子どもを授かりたいと願っている。ここでのおじいさんが幽幻道士の金おじいさんで、おばあさんがマーボおばあちゃん役の人で、幽幻ファミリーの面々が出ていて嬉しい。 洗濯をしていたばあさんが桃を発見するるが、桃が逃げるので、ばあさんがタライに乗って桃を追いかける。桃に振り回されながらも自宅に到着。桃が光って家具を動かすポルターガイスト現象。桃と格闘するじいさんばあさん。テンテンの妖精が現れ、桃から出ても大丈夫だと促す。桃が割れて男の子が生まれる。 一方悪魔島では… 太陽の剣のお陰で、魔女ボラボラが復活。元気になったボラボラはまた悪いことするぞー!!!と人間界に現れる。赤鬼軍団が人間界に出て暴れ出したのである。 赤ん坊の桃太郎のままでは人間界が危ないと思ったテンテン妖精が桃太郎に魔法をかけ桃太郎を成長させる。井戸を掘り起こしたり、じいさんの芝刈りの手伝いをしたり、持ち前の力を遺憾なく発揮する桃太郎。 暴れまわる赤鬼軍団は、りんご姫を誘拐する。スイカ太郎というデブ隊長が率いる兵隊が鬼退治にいく兵士を募っているという話を聞く。悪魔どもに好きなようにさせてはいけないということで、おばあさんは鬼退治にいくことに賛成するが、おじいさんは桃太郎のことが心配で反対する。 鬼退治に向かうスイカ太郎一行。一緒に行きたいと頼むが、子供だからと追い返される。一人で向かう桃太郎。そこへ犬丸、猿丸、雉丸がついてくる。家来にしてくれと頼む三匹。人間の姿に変身する彼ら目の当たりにして驚く桃太郎。一緒に行こう!と仲間になることを許す桃太郎。 ボラボラに目をつけらられたスイカ太郎。りんご姫に変身してスイカ太郎の...