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Showing posts from January, 2015

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her/世界でひとつの彼女

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her / 世界でひとつの彼女 (her) 監督:スパイク・ジョーンズ 2013年 アメリカ あらすじ 近未来が舞台。手紙の代筆ライターをしているセオドアは、ある日、人工知能型のOSをパソコンにインストールする。OSの名前はサマンサ(CV:スカーレット・ヨハンソン)。自分に都合のよい返事をしてくれるサマンサにどんどんのめり込んでいくセオドア。果たして彼の行く末は……。  何やら話題作で評価も高かった作品なので見てみたのだが、自分はそんなに好きではなかった。いや、スカーレット・ヨハンソンはめちゃめちゃよかったです。ほんとに。いつもと変わらぬハスキーボイス。あんな声で囁かれたい。それは誰でも思うと思うんですが、それが、実際に現実だったらどうするかなと。  自分だったら、サマンサは欲しいけど、それはそれって区別すると思う。セオドアみたいに、「恋人が実はOSなんだ…」とは実際自分がそう思ってても言わんやろなあ。でも恋人まではいかないにしろ、現実の世の中でも某ミクであったり自分の好きなようにできるアンドロイド的なものの人気はすごい。これは自分の都合に合わせて相手が合わしてくれて、しかも、文句も言わないってところがいいんかな。やっぱり。そういう付き合いというか、生身の人間と関わりを持たずに生きていくと、そっちのほうが楽に感じてきたりするんやろうか、と逆にそのへんには興味を持った。ただ、やはり実際には生身の人間ではないので、このOSの場合でもサービスが終了したり、機械が壊れたら、この関係は一時的にせよ終了してしまうもので、でも、それって人の場合も同じか、とも思うし、それだったら別に、機械と恋愛してもいいもいいんかな、と考えたりもするが、実際はふと我に返ったときに、自分は何してんのやろ…って思うと思う。虚無感に襲われると思う。  しかし、ここまで考えてみて逆のことも思い浮かんだ。では、実際に生身の人間と付き合っているからといって、それで十分にその関係で満たされると感じている人はどのくらいいるのであろうか。付き合って数ヶ月とかではなく、パートナーとして長年付き合っていける人と実際に出会えている人は現実にどれくらいいるのであろうか。  世間体や周りに言われたりして、まあそこそこの相手と妥協して一緒になって結婚して子供を持って、その子供

グランド・ブダペスト・ホテル

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グランド・ブダペスト・ホテル( The Grand Budapest Hotel ) 監督:ウェス・アンダーソン  2014 年 アメリカ あらすじ 1930 年代、架空の国のズブロフカ共和国が舞台になっていて、そこの格式高いグランド・ブダペスト・ホテルのコンシェルジュのグスタヴとロビーボーイのゼロをメインに物語が展開していく。二人はホテルの常連客で大富豪のマダムDの遺産争いに巻き込まれる。時間軸が 1930 年代、 1960 年代、現代と三つの時間軸で入れ子構造になっている。  大変色合いがかわいく、カメラの取り方も特徴的で面白い作品だった。しかし、この映画を語るにあたって、この映画が製作される元となった作家、シュテファン・ツヴァイクについて書いておく必要がある。この映画の最後に “ この話は、シュテファン・ツヴァイクの作品からインスパイアされました ” というようなことがエンドクレジットに表示される。しかし、そのクレジットには日本語字幕が表記されていないため、何も考えずに見ていると見落としてしまうかもしれない。このシュテファン・ツヴァイクについて、映画評論家の町山さんの話を聞いていたので、ツヴァイクのことを考えながら見ることができた。*1  この物語のグスタヴはこのツヴァイクをモデルに描かれているそうだ。ツヴァイクは 1930 年代に大変有名な作家だったそうだ。そして、その当時の作家同士のネットワークも持っていて、世界中の作家と交友があった。それがこの話では鍵の秘密結社になったりしている。このグランド・ブダペスト・ホテル自体が、オーストリアのウィーンを表している。そんな中、第一次世界大戦で、オーストリアはドイツに併合されてしまう。そして、ユダヤ人だったツヴァイクは全ての権利を奪われてしまった。 ツヴァイクの作品は禁書。そして焚書される。そしてツヴァイクは祖国に帰れなくなってしまった。ブラジルに亡命したツヴァイクはブラジルで『昨日の世界』という本を書いて、自殺したそうです。  本作の最後のグスタヴのシーンは、きっとツヴァイクと重ねて作られているし、ツヴァイクが望んだ、お菓子のような幻想の世界がこのグランド・ブダペスト・ホテルには描かれていた。深刻なシーンもコミカルに描かれているし、ひやっとするシーンもあるし、何だか笑

チョコレートドーナツ

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チョコレートドーナツ(Any Day Now) 監督:トラヴィス・ファイン 2012年 アメリカ あらすじ ゲイのカップルが、同じアパートに住むネグレクトのような扱いを受けているダウン症のマルコを育て、三人で家族を作ろうと努力をした話。  大変話題になっていた作品なので、期待感が大きかったのかもしれないが、見た後は、ちょっとがっかりした作品だった。がっかりというか、うまく言えないのだが、心が揺さぶられなかった。いい部分もあるのだが、この映画に対して思った感想は、マジョリティが高みの見物をして見る映画という印象が残った。ゲイのカップルが子供を引き取って育てるということが、どれだけ大変かということ、70年代のゲイに対する偏見や差別、ネグレクトに遭った子供への福祉が整っていないなど、さまざまな問題を映画では描いているが、(実際、実話をもとに話が作られた)なぜだか悲しいだけで映画が終わっている気がした。    歌手を夢見てゲイバーのようなところで働くルディ(アラン・カミング)とゲイであることを隠して働くポール(ギャレット・ディハラント)はバーのショーで一目惚れをして付き合い始める。ルディ役のアラン・カミングさんがとてもよくて好きになった。実際にこの方はゲイで同性婚もしておられるそうだ。どうりで自然体だったはずだ。歌もすごくうまくてチャーミングですごくよかった。    ルディとポールとマルコの家族はすごく愛に溢れていて、よかったが後半の裁判のシーンなど、胸糞が悪くなるような偏見の数々、救われないラストに何だかげんなりしてしまった。これを見て、差別はいけないね、と見た人は思うのだろうか。そう思う余地もなく、観客と、ストーリーとがかけ離れている気がした。これを見てもゲイの人(マイノリティー)はわかるだろうが、マジョリティーの人は共感できるところがあるのだろうか。かわいそうだなこの人たち(でも自分たちは関係なくてよかった)ってこれはちょっと言い過ぎかもしれんけど、そう思う人もいるんちゃうやろうか。そういったもやもやが拭えない映画だった。また、この映画は結構絶賛されているが、どういった意味で絶賛されているのかも知りたい。見た人の意見を聞きたい。  この話はもともとジョージ・アーサー・ブルームという方が書かれた脚本である。

マイ・マザー

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マイ・マザー ( J’AI TUE MA MERE ) 監督・主演:グザヴィエ・ドラン 2009年 カナダ あらすじ 16歳の息子ユベールと母との日常、言い合い、お互いの気持ちのぶつかり合いが描かれた話。  『わたしはロランス』を見て、グザヴィエ・ドラン監督のことを知り、ロランスがすごくよかったので、他の作品も見てみようと思い見た。この作品がグザヴィエ・ドラン監督のデビュー作である。  母と子のどうしても切っても切れない関係、嫌いだけど愛してる、といったような愛憎が終始描かれている。物語の起伏は激しくないが、アーティスティックな表現というかグザヴィエ節はこの作品でも度々登場し、映画を彩っている。母もユベールもお互いのことは好きで、どうにかうまくやりたいのにうまくいかない。母親のいちいちの言動が疎ましくて仕方がない。これは私にも経験がある。私の場合、母と一緒に生活をしなくなってましになったが、毎日生活をしているときは本当にこのユベールとユベール母のように毎日母子での喧嘩が絶えなかった。お互いがイライラしていて、言い合いなんかしたくないのに、どっちもが引かないからぶつかってしまう……。  原題の意味はI killed my matherなのに、どうして邦題は『私は母を殺した』にしないのか。ロランスのときも思ったけど、なぜ邦題は原題に忠実でないのか。明らかにこの映画の場合も『私は母を殺した』のほうがいいと思った。何が『マイ・マザー』だよ、と思った。それだと言いたいことが言えてないやないか、と。  母と子の物語を思い浮かべると、私はベルイマン監督の『秋のソナタ』を思い出すのだが、この話は、言いたいことを言えなかった母と娘が何十年の時を経て、あのとき私はこんなことを思っていて、こんなに辛かったんだ…というような、積年の思いをお互いが話すことで意見をぶつけ合う話です。ベルイマンの生々しい人間描写、内面描写が光るこの作品を、私は思い出した。母と子の確執や、どこかうまくやれない関係というのは、何も子供の年齢が若い、若くないに限らず、母と子の関係がある限り、続くのではないだろうか。母と子でなくともそういった関係に近い相手とはそういう関係になってしまうのは仕方がないのであろうか。  この話では、父親はユベールが7歳のときに離婚して

死霊伝説

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スチーブン・キング原作 死霊伝説 (Salem's Lot) 監督:トビー・フーパー 1979年 アメリカ  先ほどスティーヴン・キングのこと記事に書いてたら、この死霊伝説のこと思い出して、書きたいな、というか、ただ単にビデオのジャケット載せたいな、っていうだけの話。 あらすじ ほとんど記憶にないのやが、セーラムズ・ロッドという町で事件が起こり、ノスフェラトゥが蘇って窓の外に現れたり、けっこうあっさり杭を打たれる話。    話の内容は完全版のDVDが出たので、そちらを見るとわかるらしいのやが、VHSで見た私には内容は全く理解できなかった。では、なぜ、この記事を書いているのかというと、この作品のVHSのジャケットが非常に印象に残っているからである。ただそれだけでして、あれなんですが、それだけです。  幼少期住んでいた家の近くにツタヤがあり、私は親に連れられよく行っていました。そのツタヤでの幼少期の私の密かな楽しみが、ホラーコーナーの通りをホラービデオのジャケットを眺めながら歩く、というものでした。棚一面に面出しされているホラー映画のジャケットが怖くて怖くて、立ち止まって眺めることはできないけれど、その前を通りながら横目でそろそろっと眺める。ジャケットを手に取って見ることなんて怖くてできないけれど、でも前を通ってちょっとだけでもジャケットを見て見たいっていう怖いもの見たさに対する好奇心を当時から発揮していた私は、そのホラーコーナーの一番端の右上に置かれているこの『死霊伝説』のノスフェラトゥの顔にすっかり虜になっていたのであった。  長年の時を経て、このビデオをレンタル落ちで手に入れて、その時は感動した。やっと手に取ることができた感動だった。何分でも眺めていられるし、成長したなあと思った。内容は糞映画だった記憶(褒めてる)。今ちゃんと真剣に見返したらまた全然違う感想になるかもしれない。DVDになってあの怖い顔じゃなくなって、残念だった。私の中では死霊伝説はこの顔に限るのである。  そんな思い入れのとっても深いこの作品を満を持してブログに書いて満足です。いつもですが、今回特に自己満足記事です。

ペット・セメタリー

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ペット・セメタリー( Pet Sematary) 監督:メアリー・ランバート 1989年 アメリカ 原作:スティーヴン・キング  ※ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。 あらすじ ホラー。引っ越してきた家の近くにあるペットのお墓に猫を埋葬すると翌日なんと猫が生き返って帰ってきた。数日後、愛する息子を亡くした親は、悲しみに暮れる。父親はこっそりあの禁断の場所に息子を埋めてしまう、という話。  この映画はそんなに怖くないホラー(?)なんやけど、自分の中でなぜかはわからないが、気に入っている作品。身近な人や動物が亡くなったとき、もし、埋めたら生き返る場所があったとしたら……。  やってはいけないタブーだとわかってはいながら、望んでしまいそうな内容。実際、私もこの人たちと同じような立場に立ったらどうするだろうか。たぶんやらないだろう…しかし、本当にやらないか、と考えたら、すごく悩む。  実際、この家族はタブーを犯してしまい、亡くなった息子をあの禁断の場所に埋めてしまうんですね。アチャーと思うんですが、でも、見ている側としては、それが見たいんよな。自分は安全な位置で、他人の行動を覗き込みたいっていう。こういう心理にさせる映画です。ああ、どうなってしまうんやろうこの人たち……と思って見てしまう。自分がホラーを見るときはこういう覗き見的な感覚で見てることが多い気がしてきた。覗き魔。  印象に残ってるシーンは最後に息子が言う言葉です。「すごく、ずるい。」って言うんです。このセリフは印象に残りました。自分たちの都合で生き返らせようとして、邪悪なゾンビみたいになって生き返った息子に対して、手がつけられなくなったから、また殺そうとする、完全な親のエゴに対して言ったこのセリフが忘れられません。話の筋などだいたい読めるし、展開も予測できたのだけれど、この最後の言葉に衝撃を受けた思い出。なんて勝手なんだと思った思い出。親は子供に対してどうしても自分の思うようになってほしいと願うものなんだろうか。この映画を見た当時はそこまで考えなかったが、少し時間が経った今は、何だか現実の親の都合で振り回される子供のことを考えている自分がいる。    原作は小説で、タイトルは「ペット・セマタリー」。セメタリーの

わたしはロランス

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わたしはロランス (Laurence Anyways) 監督:グザヴィエ・ドラン 2012年 カナダ・フランス あらすじ:心は女性、身体は男性のロランスが女性になる話がメインかと思いきや、そのパートナーのフレッドの揺れ動く心や行動を描いた話。  大変素晴らしい作品であると同時に、共感する部分も多く、非常に精神を揺さぶられる作品だった。  まず、映像美や演出が素晴らしかった。ところどころに入る独特の撮り方(人物がストップして周りの映像だけ動くなど)が心地よく、また色彩も綺麗だった。    私自身も自分の性別に関してわからない部分や男女という枠組みを越境している感覚があるので、ロランスの気持ちには共感する部分が多かった。そして、見てみて思ったことは、やはり、マジョリティ側にいる人とマイノリティがうまくやっていくことはもしかしたら不可能ではないかということである。マジョリティ側、本作ではフレッドという女性がその立場なのであるが、ロランスのパートナーとしてロランスと一緒にマイノリティとして生きていくか、マジョリティのままでいわゆる”普通”と言われる家庭(男性と結婚し、子供を産む)を築くのか、の間で揺れ動きます。私が思うに、マジョリティ側にいる人々はそのマイノリティの立場になる経験も少なければ少ないほど、自分がマイノリティ側になったときの耐性は弱く、どうしようもなく不安になってしまい、また世間体や周りの目も気になるため、その状況に耐えることができないのではないかと推測する。これは映画の途中で、フレッドとロランスが喫茶店で食事をしているときに、周りの人の視線や、ウェイトレスの好奇心からくるロランスに対する質問(なぜそのような格好をしているの?趣味なの?など)に耐え切れず、フレッドが怒鳴り散らしてしまう場面がある。ここはすごく印象的な場面なのであるが、フレッドはロランスを通じて自分にも向けられているであろうその他者からの視線に耐え切れないのである。その面から考えるとロランスはタイトル通り、ずっとLaurence Anywaysなのである。ロランスはどう転んでもロランスのままでしか生きられないのである。私が私でしか生きられないのと同じように。それに対して、マジョリティであるフレッドのほうが自分の心の中にある”本当の気持ち”に素直に

悦楽共犯者

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悦楽共犯者  Spiklenci slasti 監督:ヤン・シュヴァンクマイエル  1996 年 チェコ、イギリス、スイス  ずっと快楽共犯者と思ってたら、悦楽共犯者だった。  自慰機械の制作に没頭する人々の姿が淡々と描かれる作品。セリフはない。自分にしかわからない快楽を 6 人の男女がそれぞれに追い求める。それだけの映画なんやが面白い。なんとなくわかるって思う自分も変態なんだと思うんやけど、そんな変態による変態のための映画。まあ見て。

NICO ICON

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NICO ICON スザンネ・オフテリンガー 1995年  ニコは私にとって重要な人物である。自分が一番苦しい時期に出会った人物だからである。ニコのことを教えてくれた友人には多大なる影響を受けた。その人はニコの他にもたくさん私の好きな物を増やしてくれた。本当にたくさん。このニコの DVD もその人が貸してくれたものだった。  ニコがどんな人物かということはこのドキュメンタリーを見るとわかる。 You Tube で見つけたのでおいておこうと思う。今これを書きながらまた見ているが、やはり、ニコは特別だ。ダーク、デス、ビューティー、ジャンキー、イビサ島、という言葉が頭に浮かぶ。あと、ニコとセットでアンディー・ウォーホールも思い浮かぶ。ニコは謎の人物。ニコは死の匂いを放っているが、私はニコのことを見ると勇気付けられるのである。一番好きな曲は I’ll be your mirror. フェリーニ監督の『甘い生活』に出演してるニコも好き。

ポンヌフの恋人

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ポンヌフの恋人  Les Amants du Pont-Neuf 監督:レオス・カラックス 1991年 フランス  アレックス三部作(『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』)の最後の作品。主人公のアレックスはパリのポンヌフ橋でホームレス生活をしている。知り合いのホームレスを通じて画学生のミシェルと出会う。次第に二人は惹かれ合って行く。  ストーリーは一言で言えば、恋の話なんやけど、この映画、公開までにかなりの苦労があったらしく、二度の撮影中断、費用も 38 億円もかかり、途中でカラックス監督は、当時付き合っていたジュリエット・ビノシュとも破局するっていう、とてつもない苦難を乗り越えてこられたそうだ。それを知ってこの作品を見ると、この希望に突き進むような映画の展開は、監督の最後の希望というか、思いの丈を映画にぶつけられたのだなと思った。それほどまでにこの映画の結末は美しく、光り輝いているのである。   恋愛の話ってあんまり好きじゃないんやけど、この映画は好きである。アレックス扮するドニ・ラヴァンとミシェル扮するジュリエット・ビノシュがいいんよな。ドニ・ラヴァンのことが私も大好きなので、ドニ・ラヴァンがというかアレックスが報われる展開にそれだけで幸せな気持ちになれる。アレックスがミシェルに送る言葉も好き。  まどろめ、パリよ! 【2015.06.01追記】 ドニ・ラヴァンの魅力について 私はドニ・ラヴァンという俳優が好きです。初めて『ボーイ・ミーツ・ガール』の映画を見たときから、野獣のような彼の表情や仕草、身軽な動き、話し方に虜になってしまった。ドニ・ラヴァンが放つ独特のオーラが好きです。 『ホーリー・モーターズ』で久しぶりに彼の姿を見たのだけれど、その魅力は相変わらずで、やはり私はこの俳優のことが好きだと思った。セリフが多いわけでもないのに、そこにいるだけで映像が生きてくる、なぜか見てしまう、私にとってそんな俳優です。 カラックス監督はそんなドニ・ラヴァンにいつも監督自身を演じさせていたのだけれど、 監督はドニ・ラヴァンのことをどのように思っていたのだろう。カラックス監督のインタビューの記事を読むと、監督は、ドニ・ラヴァンについてこう語っています。 “よく知っ

顔のない眼

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顔のない眼  Les Yeux sans visage 監督:ジョルジュ・フランジュ 1960年 仏伊共同製作  森の奥に住むクリスティーヌは、交通事故に遭い、顔に大火傷を負ってしまった。普段は顔にマスクをつけて生活をしている。医者であるクリスティーヌの父親は娘と同じくらいの年齢の女の子を誘拐しては、顔面の皮膚を剥ぎ取り、娘に移植手術を行うのであった。  この映画を見て、楳図かずお先生の『洗礼』を思い出した。母親が自分の娘の脳に自分の脳を移植するというお話。この顔のない目の話はフランケンシュタイン博士の人造人間の話にもつながると思うけど、人間のエゴがどこまで許されるかみたいな、しかし、結局は切ない悲しいお話です。  最後はクリスティーヌは森の中を一人歩いていくシーンで終わりなのですが、そこでやっと気持ちが解放されたというかほっとするような気分になって終わった。娘のことを思う父の気持ちもわからんではないけど、そのために亡くなる人のことを思うと、どうしようもない切ない気持ちになるし、当の娘の気持ちも考えたら余計に辛くなるんやけど、こういう気持ちになることも想像できる映画だよなあと思う。  邦題の「顔のない眼」という響きがすごく好きです。ちなみに、クリスティーヌ演じるエディット・スコブは「ホーリー・モーターズ」の運転手役で、この顔のない眼のオマージュとして最後仮面をかぶるシーンがあるんやけど、そこは嬉しい気持ちになった。

犬婿入り

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多和田葉子 『犬婿入り』講談社文庫  多和田葉子の作品を読むのは二作目。文庫には、この表題作のほかにペルソナていう作品が入っていた。ペルソナのほうから読み進めたのだが、どうも進まなかったので諦めて、犬婿入りを読んだ。感覚で読んだので、この感想も感覚で書く。  ストーリーはというと北村みつこさんが経営するキタムラ塾なるところの噂話や実話などがいろいろ織り交ぜられて、お話なのか事実なのかもぐるぐるかき混ぜられて、すると、そこにみつこが話してくれた犬婿入りの話の話の中に出てくる犬に似ているような太郎という男がみつこの家に住み始める。男とみつこと噂話の話。  読み終わった感覚は狐につままれた感覚。話のストーリーを追っても追っても追いつけず、見失いそうになりそうになるとまた目の前に現れるというか、で、結局は煙に巻かれた感覚だけ残る。多和田葉子というのはこういう人なんかなと思った。まだ、読み始めたばかりの作家だからなんともいえないけれど、きっとこの人は日本語の表現の限界に挑戦してるのではないだろうか。そこまでこねくりまわさなくてもいいのにと思わせる表現、私の語彙ではとうてい表現できないのやが、そんな気がしたので、これからも日本語の表現の奥や縁や外や、いろいろな側面から書かれる多和田さんの日本語の文章を読んでみたい。

献灯使

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多和田葉子 『献灯使』(2014年 講談社)  初めてちゃんと多和田葉子の作品を読んだ。表紙を見て、これ上野動物園にいた珍しい鳥やん、と思い、帯の"デストピア文学の傑作!"という言葉に惹かれた。  ストーリーは近未来の話。SFの映画はあまり好きじゃないんやけど、この話は大変面白く、ぐいぐい引っ張られるように読み終わってしまった。簡単に言うと、老人が死ねなくてずっと長生きしていて、逆に子供達はひ弱で、歩くのもだんだん歩けなくなるくらい運動もできなくて、若いうちにすぐに亡くなってしまう世界。日本は鎖国しており、外来語は使ってはいけない。主人公の義郎は自分の曾孫である無名を必死に育てている。自動車もインターネットも無くなった世界。子供の性別が生きている間に2、3回男性から女性、女性から男性に変わったりもする。そんな世界。  この話は、一見パラレルワールドの体(てい)を成しているが、実際は今後の未来の日本そのものだと思った。少しは誇張している部分もあるかもしれないが、この世界のようになっていく虞は十分にあり得るし、だからこそ、多和田氏がこの話を書いたんではないだろうか。今の日本に住んでいる一国民として私は本当に不安である。日本にいることが嫌になるくらい不安である。日本がこのまま進んでいけば、明らかに戦争に巻き込まれるであろうし、国民がどんどん苦しめられていくことは目に見えている。早く国外へ行きたい。本当に行きたい。

真説ザ・ワールド・イズ・マイン

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新井英樹 真説ザ・ワールド・イズ・マイン(2006年、ビームコミックス)  町山智浩のアメリカ映画特電で聞いて、読みたくなったから読んだ。話の内容はほんと「ナチュラル・ボーン・キラーズ」みたいな感じ。主人公のモンちゃん(画像:一巻表紙)は人を殺すことにも暴力を振るうことにも何のためらいも悪意も感じない人物。このモンちゃんといっしょに行動をともにするのがトシというひ弱で爆弾を作ることができるオタク。トシは元郵便局員だったが、モンちゃんと出会うことで、「力」を手に入れてしまい、どんどん後には引けないことになっていってしまう……。それと同時に発生した謎のヒグマドンという怪獣に日本は襲われる。  トシモンと呼ばれるこの二人はどんどん人を殺して行くんだけど、この話で問われていることは、「なぜ、人を殺してはいけないのか。」ということである。法律や道徳や倫理などで抑制されていなかったら我々の誰しもが人を殺す可能性を秘めているのである。作者はそのことを、この漫画で読者の目の前に突きつけるのである。  戦争では人を殺すことが許されて、なぜ日常ではいけないのか。裏を返して、なぜ戦争では人を殺してもいいのか。侵略するためだったらその土地の人を殺してもいいのか。奴隷にしてもいいのか。私たちが今住む世界が人を殺してはいけないと法律にも掲げて言っているのも関わらず、地球上で戦争がなくなったことはないし、今も起こっている。なぜなくならないか、それで得をする人々がいるからである。こんな世界に生きていることは嫌になることのほうが多いけど、生きてる。死ぬのなんて一瞬やなと、儚いなとこの漫画をみて思う。人間て愚かやなと思う。

〈映画の見方〉がわかる本 80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀

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  町山智浩さんの『トラウマ映画館』が好きで(本もトラウマ映画のレビューも)最近Podcastで「町山智浩のアメリカ映画特電」という話が面白くてちびちび聞いている。それで、本屋でこのブレードランナーの未来世紀を見つけたので買って読んでみた。 この本で章立てられている映画は、 デヴィッド・クローネンバーグ『ビデオドローム』 ジョー・ダンテ『グレムリン』 ジェームズ・キャメロン『ターミネーター』 テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』 オリヴァー・ストーン『プラトーン』 デヴィッド・リンチ『ブルーベルベッド』 ポール・ヴァーホーヴェン『ロボコップ』 リドリー・スコット『ブレードランナー』 の8本である。しかし、この映画たちのもとになった映画、今後影響を与えることになった映画など、この8本以外にもたくさんの映画が本書の中で紹介される。  町山智浩さんの本でも話でも共通することなんやが、紹介される1本の映画の中から関連する他の作品を次々と挙げていって、どういった映画が元になているのかや、監督や役者の性格や嗜好など大変細かい所まで分析されていて、それをPodcastでは、面白そうに話されるのでそれがまた面白い。この映画見たいな、と思ってしまう。そういった面から考えると、私は町山さんの本も好きだが、Podcastみたいに話してる話を聞くほうが好きなのかもしれない。映画をあまり見ないパートナーも町山さんのPodcast好きなので(というかおもろいとむしろ教えてもらった)話術がおもろいんやと思う。  この本の中でやったらビデオドロームが1番好きやから、そこを特に興味深く読んだのだけれども、監督の熱い想いまで強く解説してくれていて、とても面白い本だった。タイトルの通り、映画の見方が今までと変わっていく本。 町山智浩 〈映画の見方〉がわかる本 80年代アメリカ映画カルトムービー篇  ブレードランナーの未来世紀 (2006年、洋泉社) <楽天市場>【送料無料】 ブレードランナーの未来世紀 “映画の見方”がわかる本 80年代アメリカ映画カル... 価格:1,728円(税込、送料込)

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【備忘録】 本 2015 4 犬婿入り 3 献灯使 2 真説ザ・ワールド・イズ・マイン 1 ブレードランナーの未来世紀