マミー(Mommy)
監督:グザヴィエ・ドラン 2015年 カナダ
※ネタバレしています!
父親を亡くし、母と子が二人で暮らしていく物語。息子のスティーヴはADHDという発達障害を持っており、施設に入っているが、施設では手に負えない状況で、施設から母に引き取ってほしいと連絡が来る。
ここで私が印象に残っているのは、施設の職員の女性が母ダイアンにかける「愛だけでは救えないのよ」という言葉。
見終わってみて、確かに、愛だけでは救われないかもしれないと思いました。愛がいくらあっても、お互いの努力がないとどうしようもないと思うからです。しかし、愛があるからお互い努力しようと思えると思うので、まず、第一に愛ありきではあるとは思いますが...。むしろ、愛なしで誰かと一緒に生活していくのはただの苦痛じゃないかと思います。
ダイアンはスティーヴを引取り、新しく家を借りて二人で生活を始めます。ダイアンはスティーヴのことを愛していて、スティーヴもダイアンのことを愛しています。ですが、いっしょに生活していくとなると、スティーヴの衝動性や一旦キレると手がつけられなく状態が生活を穏やかにしません。スティーヴはそんな自分に対して苛立ちを覚えつつも、母のためならどんなことでもしたい、と思って実際に行動に移したりして、それはそれでまた問題を引き起こしたりして、踏んだり蹴ったりな状況になったりします。
ダイアンはスティーヴのどうしようもなさに、私はこんなに頑張ってるのに、あんたのせいでこうなってるのよ、と怒鳴り散らすときもあります。しかし、最後には、「でも、いいのよ」と言います。
スティーヴがスケボーに乗って腕を広げているシーンがすごく印象に残っています。外のシーンの空や風景がとても綺麗で、生きづらく窮屈な日常からスティーヴの心が解き放たれるような解放感を見ている私も味わいました。
ダイアンは向かいに住むカイラ(教師をしているが現在休職中)と仲良くなる。カイラはスティーヴとも気が合うようで、3人が揃うことでお互いに作用し合って幸福な時間を過ごします。
最後は、保護者に何らかの理由があれば、発達障害の子を法的手続きなしで病院に入れることができる新しい法律の適用のもと、ダイアンはスティーヴを病院に入れます。
ここで思ったんが、なんで、ダイアンはスティーヴに病院に入れることを告げなかったのか。なぜ、隠して連れてきたのか。病院に入れると言ったら、スティーヴは絶対嫌がるだろうし、ダイアンとしても本当はスティーヴを病院に入れたくない、でも、入れないとダイアンもスティーヴも生活していけない、ってことなんやろうけど、そこはお互い納得した上で進めたらどうやねん、と思った。あのやり方だとスティーヴが暴れるのもわかってるし、環境の変化に敏感なADHDなら尚更病院に入れるのが難しくなるのではないか。いきなり、離れ離れで病院入れて終わり、じゃなくて、少しずつ病院に預けるところから始めて、最終的に入院、それからスティーヴが自立していけるようにいっしょに協力していく、というような方法は無理だったのか。
口では何とでも言えるので、こうすればいいのでは、などと考えるのは無駄なのかもしれないが、スティーヴは母からの愛をすごく求めていて、それは父のいないさびしさや、周りに受け入れられないつらさもあったと思う。なかなか難しいのかもしれないが、他人に危害を加えたりしない程度には社会でうまくやっていけるようにするためには、やはり本人の努力と周りのサポートが必要だと思う。
映画が終わって、映画館を出ると、前を歩いていた1組の夫婦と思われる人たちが、「あの性格は治らへんてことやな」って言っていた声が聞こえたんやけど、治らへんとか治るとかの問題じゃなくて、どうしていくかやろ、と思ってしまった。現状を受け入れ、それでも生きていかないといけないんやから、理想通りの人生じゃないかもしれないけど、でも、生きていかんとあかんのや、というメッセージを私はこの『マミー』という映画を見て受けとりました。
ダイアンとスティーヴのような親子関係があってもいいと思うし、カイラが引っ越しして遠くに行くのも寂しいけど、生きてたらまた会おうと思ったら会えるんやし、スティーヴとダイアンとカイラとこれからもうまくやっていってほしい。人生はクソだけどそれでも生きていかなければならないのだから...。3人にはこれからも幸せになってもらいたい。どうか愛が3人を繋げますように。
音楽も印象的で、早速劇中に流れていた曲を聴きまくっている。あと、3人で夕食を食べてダンスするシーンもむっちゃ好きやった。
しかし、本編全体を見てどうかというと、本作は生きる希望が『わたしはロランス』ほどには湧いてこなかった。ロランスのほうが感情移入できたからかもしれないけれど、どうあれ、社会に紛れるマイノリティーたちを描く話には変わりはない。今回、それにプラスして母と子という普遍的なテーマにスポットを当てて盛り込んでいるが、ダイアンとスティーヴの距離が近いようで遠いような気もした。2人は愛し合ってはいるが、2人の間には距離がある。お互い歩み寄ってうまくやろうという気持ちはあるがお互い実践できてないというか...。だから、これからに期待してしまうんやろうな。というこで、本編中には希望はあまり持てなかった。ダイアンは希望を捨てないためにスティーヴを病院に入れたと言ってたけど、病院がすべてを解決してくれるわけじゃないし、「病院に入れる」=「希望」というのが私にはあまりピンと来なかった。スティーヴをトラブルから避けるのが希望なのか、自殺しないように監視してもらうのが希望なのか、スティーヴがキレたときに自分に危害が及ばないことにするのが希望なのか、スティーヴを病院で矯正してもらうのが希望なのか.......。
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しばらく考えて思い浮かんだんやが、ダイアン、スティーヴ、2人ともが生きることが希望なんじゃないかと。2人ともが生きるためにこの選択をダイアンは選んだんじゃないのか。
劇中で『ホーム・アローン』のオマージュがいくつかあったが、あの話も、息子は母親にかまってほしくて母親のことが好きで、母親も息子のことが好きで、でも、離れ離れになってしまう話やし、でも、最終的には息子が困難を自らの力で乗り越えて母親と再会する話しやから、スティーヴとダイアンもそうであってほしい。
すごく個人的な話なんやが、私の友人で亡くなった人がいて、その友人も母と子で暮らしていて、孤独で、いろいろなことをして母親が自分のことをどこまで見放さないかを試すようなことをしたりしていた。だから、スティーヴが手首を切って「僕たちまだ愛し合っているよね?」とダイアンに言ったとき、その友人のことが頭によぎった。友人が亡くなったのは、友人の母が、時折暴れたりして手がつけられなくなった友人に対して危険を感じ、別居した後であった。友人の母は友人を自立させるためでもあったと言っていたのだが、何がそこまでその友人やスティーヴを不安にさせるんやろうな。もっともっと愛がほしかったんやろうな。寂しかったんやろうな。
だから、『マミー』を見てなんかその友人と被るところがあって、思い返してみれば似てるなあと。ただ、母が息子を手放した先が一人にするのか病院に入れたかの違いだけで。
生きてたらいいねん。ほんま。死んだら終わりやん。生きてたらつらいこともあるけど、楽しいこともあるやん。もし、ダイアンがスティーヴを病院に入れてなかったら、行き詰まって親子で心中ということもありえるかもしれんやん、考えすぎかもしれんけど。だから、離れてても、お互いが生き延びる選択をしたダイアンはつらいと思うけど、本当に希望を捨てなかったんだと思う。
ああ、『マミー』の続きが見たい。
スティーヴが病院を出てからの生活を2人が幸せに送ってほしいと思います。あれで人生は終わりじゃないし。音楽をいっぱい聴き込んでまた見たいです。いろいろ考えて、考え方も変わっていったりしたので、次は最初見た時とまた違う目線で見られると思います。
ストーリーを見た後でここまであれこれ考えてしまう映画って自分の中でそんなにないと思うので、ここまでいろいろ刺激をくれるドラン監督に感謝しています。
ぐるぐるぐるぐる思考を書き散らしましたが、自分が考えたことの記録として置いておきます。ほんま、生きるのって大変やな。でも、生きようと思う。生きてたらいいんや。
ほんならまた明日
あ、まだ言いたいことあった。
あの、ダイアンがつけてるスティーヴにもらった“Mommy”のネックレス、最初もらったときブチ切れて返して来い!とか言ってたのに、その後からずっとつけてるやん、ほんまはむっちゃ嬉しかったんやなと思ってなんかニヤニヤした。まあスティーヴはほんまかわいいよな。
以上
ほなほな