わたしはロランス


わたしはロランス (Laurence Anyways)
監督:グザヴィエ・ドラン 2012年 カナダ・フランス


あらすじ:心は女性、身体は男性のロランスが女性になる話がメインかと思いきや、そのパートナーのフレッドの揺れ動く心や行動を描いた話。



 大変素晴らしい作品であると同時に、共感する部分も多く、非常に精神を揺さぶられる作品だった。
 まず、映像美や演出が素晴らしかった。ところどころに入る独特の撮り方(人物がストップして周りの映像だけ動くなど)が心地よく、また色彩も綺麗だった。
 
 私自身も自分の性別に関してわからない部分や男女という枠組みを越境している感覚があるので、ロランスの気持ちには共感する部分が多かった。そして、見てみて思ったことは、やはり、マジョリティ側にいる人とマイノリティがうまくやっていくことはもしかしたら不可能ではないかということである。マジョリティ側、本作ではフレッドという女性がその立場なのであるが、ロランスのパートナーとしてロランスと一緒にマイノリティとして生きていくか、マジョリティのままでいわゆる”普通”と言われる家庭(男性と結婚し、子供を産む)を築くのか、の間で揺れ動きます。私が思うに、マジョリティ側にいる人々はそのマイノリティの立場になる経験も少なければ少ないほど、自分がマイノリティ側になったときの耐性は弱く、どうしようもなく不安になってしまい、また世間体や周りの目も気になるため、その状況に耐えることができないのではないかと推測する。これは映画の途中で、フレッドとロランスが喫茶店で食事をしているときに、周りの人の視線や、ウェイトレスの好奇心からくるロランスに対する質問(なぜそのような格好をしているの?趣味なの?など)に耐え切れず、フレッドが怒鳴り散らしてしまう場面がある。ここはすごく印象的な場面なのであるが、フレッドはロランスを通じて自分にも向けられているであろうその他者からの視線に耐え切れないのである。その面から考えるとロランスはタイトル通り、ずっとLaurence Anywaysなのである。ロランスはどう転んでもロランスのままでしか生きられないのである。私が私でしか生きられないのと同じように。それに対して、マジョリティであるフレッドのほうが自分の心の中にある”本当の気持ち”に素直になれず、揺れ動き、結局境界を越えることはできなかったのである。
 性別など関係なくとも自分に合ったパートナーを見つけるというのは本当に難しいことであるなとここ数年つくづく痛感している。周りを見ていて思う。そんな人滅多に現れないからである。だから、比較的出会いの多いマジョリティ側の人の方が妥協したり、こんなもんだと自分自身のことを何とか納得させ生きているのかもしれない。この映画でもそれを感じた。

 監督のグザヴィエ・ドランはカナダで俳優をしており、ゲイである。そらそうやわな。女装をしたロランスに向けられるマジョリティたちの視線の描き方などはこっち側の人間にならないとわからないと思う。2009年に『マイ・マザー』という作品で監督デビューされている。他に『胸騒ぎの恋人』、『トム・アット・ザ・ファーム』、『Mommy』という作品がある。どれも未見なので見てみたい。ロランス役のメルヴィル・プポーも大変綺麗な人で、好きになった。
 168分と長めの映画だが、最後まで集中して見た。いい映画だった。


【2015.4.23 追記】
ロランスがインタビュワーの女性の「何を求めているの?」という質問に対する以下の答えがすごく印象に残っている。

”私が発する言葉を理解し、同じ言葉を話す人を探すこと。自分自身を最下層に置かず、マイノリティーの権利や価値だけでなく、“普通”を自認する人々の権利や価値も問う人を……”

ロランスはどうしてもロランスなのである。社会に合わせるわけでもなく、自分の生き方を貫くのである。そして、既存の“普通”のことに対してその権利や価値を問うているのである。私はこのロランスの生き方に希望を持った。私もロランスみたいに生きたいと思った。そして、励まされた。


考察しました。
 









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