佐々木治夫神父の死者の日のミサ
監督:岡村淳 2016 ブラジル
死とは、なにか。
人は死んだら、どうなるのか。
お墓参りは、どんな意味があるのか。
その根源的な問いをブラジルの奥地で奉仕活動を続ける日本人のカトリック司祭・佐々木治夫神父とともに考える。
(
岡村淳のオフレコ日記より)
岡村監督の『赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み』の作品に登場する佐々木治夫神父がキリスト教の「死者の日」にミサを開いた。
佐々木神父はパラナ州奥地のアルコール依存症の人たちの更生施設のチャペルでそのミサを行った。
22分という短編であったが、そこで語られる佐々木神父のお話の内容はどれも大変印象的で、人間とは何なのか、なぜ死者のために祈るのかということについて、佐々木神父の見解を述べている。
死とは永遠の世界に入ること。
永遠とは、時間の変化がないこと。
永遠の世界に入るということは、変化がないということ。
作中で、佐々木神父が語られた、辺獄(Limbo)について、感心したことがあった。
辺獄とは、何の罪もない子供でも洗礼を受けてないと天国に行けない、神様が罰を与えられないから、辺獄へ行かせるらしい。
私は「Limbo」という言葉は聞いたことがあった。「Limbo」という好きなゲームがあったので、言葉というかその音は知っていました。しかし、意味までは知らなかったので、その意味を知って、納得しました。そのゲームは子供が主人公で、薄暗い町や森を抜けて、消えた妹を探すゲームだからです。あのゲームは辺獄をさまよう子供の話だったんだ!と納得しました。
佐々木神父はその辺獄に対して、洗礼を受けていな人に罰を与えるなら、日本人の大半は辺獄に行ってしまう、神様はそんなことはしないと私は思います、とおっしゃった。
親が子供に対して、「悪いことをしたら神様から罰が当たるよ」と言って脅すことがありますが、あれはよくないと佐々木神父がおっしゃっていた。子供はそれを聞くと、神様を恐れるようになるからです。
神様は人間を罰するために来たのではなく、救うためにきたのです、と佐々木神父は語る。
これを聞いて、私は、自分が子供の頃に、よく母から何か自分が怪我などをしたときに、「言うことを聞かへんから罰(バチ)が当たったんや」と言われまくってきたので、そのことを思い出しました。子供ながらに、その言葉にもやもやする部分はあったのですが、今ほど言語化することもできなかったので、黙って受け入れていましたが、今思えば、親の責任転嫁だなと思います。
佐々木神父の話を聞いて、神様とはもっと優しい方なんだと今さらながら思いました。
私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神様という存在は信じています。
神という存在は、数々の宗教どれもが共通して持っている概念で、人間はそうした、人智を超える存在に頼ることで心の拠り所としている部分があると思います。
今自分がこうして生きていられること、素晴らしい先祖、両親がいることに感謝して生きていきたいと改めて思いました。
非常にシンプルで、人間の根源的な問いに静かに、淡々と話す佐々木神父の姿に、聞き入る至福の時間でした。