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死ぬふりだけでやめとけや



 この本は、私が尊敬する姜信子先生が編集された本である。だから、読んだというのが最初のきっかけであった。姜信子先生が谺雄二さんに会いに度々国立療養所栗生楽泉園に訪問されているのも何となくは知っていた。フランシス(私たちは姜先生のことをこう呼んでいる)は大学の先生をしていて、ハンセン病のほかにも水俣病のこと、日本という国が犯した罪、差別された人々の叫びを追っていつもいろいろなところを飛び回っている。旅をしている。それは日本だけには留まらない。うまく書けないが、私にとってフランシスはそういう先生である。人間の魂の叫びを書く歌う。浪曲師の方と浪曲にのせてセッションする。
 本の話に戻る。この本は、谺さんがハンセン病を7歳で発症し、今年亡くなられるまでの戦いの軌跡である。詩人と活動家としての二つの顔を持つ谺さんの声が、言葉が、「いのちの証」がそこにはある。標題の「死ぬふりだけでやめとけや」の意味を知ったとき、私は、私もどうせ生きているなら、自分ができることをしてやろう。死んだら自分という存在がこの世から消えてしまう。当たり前のことだが、自分は自分という人の生き証人なんだなと改めて実感した。自分が受けいている苦しみ、社会のおかしさ、そういったものは自分でないと発することができないのである。だから、人は書くのである。胸の内にある叫びを苦しみを書くのである。
 私はこの本を読んで、いかに日本という国がハンセン病の人の差別に無関心だったかということがわかった。そういうふうに受け取れた。らい予防法が廃止されたのが1996年というのはどう考えても遅すぎる。特効薬も開発され、治癒する病気であるにも関わらず、忘れ去ったようにこの問題に向き合わなかった国。しかし、ハンセン病に限らず、どのような問題についても国の対応は似ているところがあると思う。マジョリティにとって関係のないことは無関心なのである。当事者が声を上げなければ存在すら抹消される。すべての人に人権がある、学校でも人権教育やらなんやらやってるくせに、人権を侵されたことのない人には痛みはわからない。だから、気づかないのである。私は学校でハンセン病のことを習っただろうか、こういう歴史があったことを聞いたことはあっただろうかと思い出そうとしても思い出せなかった。おそらく、教育の中では触れられなかったのだろう。在日の外国人のこと、性的マイノリティこと、日本にいるマイノリティのことを日本人は知らなさすぎる。ここが問題だと思う。多様性、多様性と言葉でいうのは簡単だが、こういった病気が完治した人や、マイノリティが差別されたり、偏見を持たれたりするのは、あまりにもマジョリティと距離が離れ過ぎているからではないか。マジョリティはマイノリティではないのでその苦しみや痛みはわからない。それは当然かもしれないが、痛みをわかろうとすることはできるのではいか。想像することはできるのではないかと思う。私はこの国が大嫌いだ。だからこそ、潜り込んで、観察して、どうにか生きて、生きるしかない。自分は自分の生き証人だから、この自分の行く末をぢっと見守らなければならない。



『死ぬふりだけでやめとけや』谺雄二詩文集 姜信子編
2014年

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