女装して、一年間暮らしてみました。



『女装して、一年間暮らしてみました。』
クリスチャン・ザイデル著  長谷川圭訳  サンマーク出版  2015年

ふらっと久々に立ち寄ったブックファーストで、表紙を見た瞬間読みたい!と思って手に取った。

著者のクリスチャン・ザイデル本人が一年間にわたり、女装をして過ごすという実験をした体験記。きっかけは、ストッキングって寒い日にほどよく体を温めてくれるんじゃないの?とクリスチャンが思って、思い切って買うところから始まり、クリスチャンがどんどん美しい女性の見た目になっていきます。

この話の興味深いところは、クリスチャンはLGBT的な感じで女性になりたい、性別を女性に変えたいというのではなく、あくまでも自身の性自認は男性のままで、男性の社会的な役割から解放される気持ちを表現(体現)しているところです。

以下、考えたこと

①好きな服装をして過ごすという感覚はコスプレに似ている?

今の自分の何もかもを忘れて(考えずに)好きにキャラクターの衣装を着て、そのゲームなり、アニメなりの世界に入るというのは、一種の自分の性別や、社会的な役割からの解放のような気がする。
コスプレでは、女性が男装することは普通のことで珍しくない。男性が女装することもある。ただし、男性が女装することについて、禁止しているイベントもある。(何回か見かけたことがある。)これは、なんでなんやろ?

知恵袋的なものを読んでみたら、イベント主催側からの要請と、参加者側からの要請と、会場が一般人の目に晒される場所だと、一般人からの要請があったり、いろいろみたいやけど、要は、
・男性が女装するのはおかしい→気持ち悪いという嫌悪感から禁止している
・性癖でやってる人と見分けがつかない
・過去に男性レイヤーが女性更衣室に入るなどのトラブルを起こした
・男性レイヤーは女性レイヤーに比べて圧倒的に少ないため、排除しても会場側に影響がない

などなど...

ここでは、この本のクリスチャン(クリスチアーネ)がいうように、男性が排除されている例だと思う。しかし、それで、女性が権利的に優遇されているのかといえば、そうではなくて、主催側や会場で目に触れるであろう一般人が男性レイヤーの女装を見たくないという理由だったら、女性はただ、その主催や一般人の欲というか恣意的な理由によって許可されているだけだから、それはそれでおかしいなと思う。

最近では、ロケやスタジオで取る人も多いからレイヤーの人々はイベントに縛られずにコスプレしやすくなったとは思うけど、差別なんて簡単に作られるし、一部の犯罪者やトラブルを起こす人のせいで巻き添えくらって排除される人がいるというのは悲しい構造すぎる。

こうであるべき、こうじゃなきゃきもい、こうじゃなきゃおかしい、っていうフィルターを持っている人が多ければ多いほど、世の中は住みにくくなる気がする。フィルターを持ってる人も自分自身をそのフィルターを通して見るため、自分の首を絞めていることも気づかずに苦しんでいるのではないか…。


②私が好きな服を着るのも、性別の役割から解放されたいから?

私は自分が服を着るときに、ゴリゴリの男性もしくは女性みたいな服は着ない。これは、自分がどちらの性別にも属しきれない(という性自認)からそういう判断をしてしまうのかもしれないが、別に誰もが好きな服を着ればいいと思うからである。それで、最初は批判されるかもしれんけど、やり続けてたら、誰も何も言わんようになります。これがこの人なんやって、わかってもらえるようになります。
そもそも、批判してくる人も、冷静に考えたら、すごい傲慢やなと思う。アンタは私の何をわかってんの?と問いただしたくなる。そういう人ほど他人をコントロールしたがる。
なぜそんな批判してくるかというと、自分の想像を超える人が目の前にいることが不安で認めたくないというか、気持ち悪いんやろなと思う。

私の場合、自分の生きやすい服装をするのが、世の中を生きるべく処世術だった。
私も自分がクリスチアーネみたいに、自分が好きな服を着て、自分の中の自分を解放してやっていたからこそ、生きてこれたんだと思う。服装ぐらいで、死ぬか?と思われるかもしれないが、死ぬと思う。服装や見た目というはいわば記号である。それが男性を表すか女性を表すかによって、周りの人の対応が違う。あと、これはこういう感覚の人しかわからないかもしれないが、その服装をしていて、なんか違う、と自分の中で思う。それでもそれが自分の身体的な性別に適合する服装だったら着なくてはいけない、でも、自分ではなんかこの服違う、と思うわけである。では、反対の性別の服を着ればしっくりくるかと言われれば、そうじゃないこともあるし、すごくややこしいんやけど、自分な好きな服を着るしか逃げ道はなかったのである。(私の場合)
なんか違うと思いながら生活するのは、知らず知らずのうちに大変なストレスがかかるし、そんなんだったら、違和感に付き合うのをやめることにした。周りからの悪意のない視線も痛いなと感じることもあるが、それでもそうするしか生きていけなかった。


③“普通”の人は服装についてどう考えているのか。

私もかつては、親に体の性別らしくしろ、服装を着ろと言われたことがある。その度に、なぜか傷つき、自分はそういう格好をしたくないと思っていた。そして、嫌だと言い続けた。たまに母が望む格好を嫌々すれば、母は喜んだが、私の心は虚ろだった。その格好をしている自分は自分ではなかった。
いざ、自分が好きな格好をできるようになったら、もう押さえきれなかった。自分の着たい服を着るようになった。ピアスもいろんなところに開けまくった。何かを解放したかった。

今現在は好きなようにしている。そのことで、周りの目もあまり気にならなくなった。周りがどう見ようと、自分は自分でしか生きられないのだから。

この本を読んで、いろんな人がもっと自分の中の小さな違和感から自由になれればいいのにと思った。自分はこれからも、好きな格好をして生きていく。

最後に、クリスチャンの話を読んで一貫して思っていたことなんやが、男性という役割などから解放されるために女性の役割(服装)をするとういう方向にクリスチャンは行ったのだが、男性から解放されるための選択肢が女性だけだとは私は思わない。逆もそうだけど、女性の役割から解放されたかったら、男性にならなくてはいけないのかといったら、そうではないと思う。
今回、クリスチャンの場合は楽しんで、自分がしたいからしているので、それはそれでいいと思うけど、別に女性の風貌をわざわざ意識しなくても、自分のしたい、やってみたいことをしたらいいと思う。それが側から見たら女性っぽく(男性っぽく)見えるかもしれないが、男か女かどちらかの性別に見せたいと意識する必要はあるのか、と疑問に思った。男性・女性どちらにも見える、どちらにも見えない見た目にというのは、社会生活をしていく上でいろいろ混乱が起きたりすることもあるかもしれんけど、いろんな人がいていいやんと思う。
男女のどちらか、という性別や認識自体から解放されたい。
どっちかを演じるのも嫌やし、人からも押し付けられたくない。

この本を読んで自分の内面や、今まで生きてきた生き方についてなどたくさん考えました。これからも考えるやろうけど。
すごく、自分の内面に響く本でした。おもしろかったです。

ほなほな

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